叱るということについて考える。
久しぶりのブログです。
書きたくなりました。
自分のために始めたブログですが、もし参考になる人がいたら嬉しいとも思います。
叱ることのデメリットを再確認しました。
敬体だと他人事な感じがするので、常体でいこう。
ようやく新しい子供たちがなじんできた気がする。
新しい子供たちに先生のことを理解してもらうまでに2か月かかった。
さて、本題。
「叱る」という指導をせずに子供たちと生活していきたいと考えている私。
でもそれだけで上手くいかないこともあるという人も多いはず。
でも、「叱る」ことのデメリットを目の当たりにして、やっぱり違う方法を模索していくべきだと考えた。
今は多様な子供たちがいる時代。
座って静かに授業を受けられない、ルールを守れない子たちが多くなっているように感じる。
そうすると教師は「話を聞きなさい」、「なにやっているんだ」と注意をする。
よく考えよう。
強く注意をすると、子供たちはどうなるか。
①教師への不信感を募らせる。
②一時的に言うことを聞く。
③反発心が膨らむ。
①自分の気持ちを理解してくれない。頭ごなしに怒られた。あの先生に期待しない。
というケース。ヨシタケシンスケさんの「ふまんがあります」とかのシリーズ、まさに本人にしか分からない悩みを理解せずに叱るというのは良くないのでは。
そもそも、教師が子供たちの上に存在していなくては許せないタイプの人がここにハマるのではないか。
②③この先生がいるときにだけ言うことを聞かせる指導体制。これもまずい。他の先生のときにやりたい放題になることも。実際、小学校で押さえつけて教育して、中学校にいったらどうなってもいいのかな、とか思う。困るのは特に配慮児童。子供たちだって、体も心も大きくなる。膨らんだ反発心が少しずつ肥大化していって、いつか追い越してしまう時がくるはず。だから女性の先生で上に立とうとする学級では、崩壊することが多いのは高学年。越されてる。だから低学年が良いのよ私。っていう人が増えてくる。男の先生の言うことしか聞かないんだよねと。
違う、そうじゃない。やりかた、考え方、システムが悪いと思ってしまう。
書きなぐってしまったけど、配慮児童は本当に困っている。
先生がマウントを取る学級だと、配慮児童は入れない。友達も先生の言うことを聞くのが優先で、困っている児童は助けてもらえない。そりゃ教室を飛び出すでしょう。だれも助けてくれない。学校を出ちゃいけないっていう道徳心とせめぎ合ってるよ。
みんなと同じくできないことがあるって前提で目線を合わせてほしい。ハードルを下げてあげて、できたことを認めてあげる経験を積み重ねてあげないと自己肯定感がどんどんなくなっていって社会不適応な人間になるよ。
論点がずれてきた・・・
今回のテーマは、叱ることによって問題行動を起こす児童の様子をしかりと見たことで考えたこと。
思いがあふれた。
ここで一番言いたいことを言う。
叱ることでの大きなデメリットがあることに気付いた。
それは、児童の成功体験を奪うということ。
教師が大声を出して言うことを聞いたらそれは誰のためにやったことなの?
誰の成長なの?先生のためにやることの意義は?
「自分で決断してやったことが認められる」
にしていかなきゃ、意味がないと思う。
成功体験の前に問題行動はどうするの?
基本的には小さな問題行動はあまり触れない。負の行動は強化せず正の行動を強化する。これが自分の中の鉄則。
正の行動をするまで待つ。
当たり前のことだってできていたら認めることはできるわけだから。
リフレーミングがうまくできると正の行動は見つけやすいかもしれない。
成功体験ができる場を教師が用意しておいて、そこに乗っかってできたら認めてあげる。
これがやっぱり一番なんじゃないかと思えた最近だったわけです。
この考え方には賛否両論あると思うのですが、勇気をもってさらけ出してみました。
この話語り合いたいなあw
1学期残りわずか。がんばろう。軸をぶらさず。